(会場よりの質問)
子供たちは退屈が一番嫌いである。勉強がわからないからつまらない、わかっていることばかりでつまらない、という子供が多いのではないか。学校が退屈でなければ、学校が楽しくなり、子供たちが変われると思う。そこで、能力別の教育方法とることができないか。
(和田秀樹氏)
「わかる」という体験で退屈をしのぐことと、「できる」という体験で退屈をしのぐということがある。子供のある時期は、「わかる」ということにあまりこだわらず、丸覚えでいいから「できる」という体験をさせる方法もある。
いずれにしても、生徒数がある一定数以上になると能力別にせざるを得ない。
フィンランドは、特殊学級さえ廃止して、学習障害者を含め能力別を一切排している。しかし、クラスが小さく、必要に応じてクラスを5人ずつといった小さな班に分け、教えたことは必ず身に付けさせるということを前提としている。
能力別が効率的には一番良いと思うが、子供の自尊心を傷つけ逆効果になることもある。子供の生まれ月等に起因する発育の差なども考慮に入れ、子供の自尊心を保ちながら、能力別のクラスをつくることや、能力別に頼らず少人数学級を実現するなど、いろいろな工夫が必要である。
(小林義典氏)
様々な子供が教室にいることが、お互い刺激しあうという面でメリットがある。ノートに写す等の作業をさせることが非常に大切である。工夫次第で対応できる。
(八木秀次)
「能力別」というと刺激的な言葉になるが、「習熟度別」との表現で導入している学校はある。
私には子供が三人いるが、完全能力別の学習塾に通っている。毎日テストがあり、成績が貼り出され、それにより席順が決まるが、子供はそれを喜んでやっている。子供とはそういうものかもしれない。今の教育界はあまりにも競争をさせなかった。その弊害が出ているのではないか。
学習塾は学校教育と違う原理を取り入れて成果を上げている。
(橘直也氏)
うちの塾は能力別を取り入れていない。講師二人に生徒が20人で、一人で10人見ているからである。
これには利点がある。一年、二年経つと全体の平均レベルが確実に上がる。これは、成績上位の子が増えるというより、下位の子たちが上の子たちに引っ張られ、全体的に底上げされるのである。
(会場よりの質問)
教育現場には、競争をさせない、内申点を秘密にする等、子供たちが自分自身の現状を認識できない様にしている現状がある。子供たちが現状を認識できなければ、勉強すべきか否か、自分はどうすべきか、自分で判断できないと思う。現状を子供たちに認識させる制度が必要ではないか。
(橘直也氏)
内申点に関しては各校が秘密にしている。理由は明白である。今の教師にとって、内申点を奪われると「仕返し」ができなくなる。そのためだけに内申点を握っているのが現状であると思う。
子供の現状認識に関しては、まさにその通りであると思う。大学入試は県内だけの競争ではない。全国の人と戦わなければならないのである。厳しく子供に現状を教えることが子供の将来につながる。
(小林義典氏)
小学校においては、子供たちに競争の意識が少ないのが現状である。
教室では、たくさん間違ってその間違いを直し、賢くなるのだと教えている。テストを返す時、私は点数を公表している。
(和田秀樹氏)
情報は公開すべきである。自分が何を頑張らなければならないか、自分の能力を分析しどうすれば自分の能力を伸ばせるか、これらを考えるにはデータがなくてはならない。
内申点であるが、例えば道徳を教科にして評価することは反対ではないが、評価の基準は曖昧なものであってはならない。昔の内申書は、どんなに先生に嫌われていても、数学や英語等の点は、小テスト・中間テスト・期末テストの平均点で客観的についていた。ところが現在、テストの点数が最低の場合25%しか加味されず、その他、意欲・態度等の観点から総合点をつけるシステムになっている。意欲・態度は、先生の主観によっているのである。これらが、子供たちを不安にさせ、頑張る意欲を削いでいる。実は、ゆとり教育だけでなく、このような評価システムも学力低下の一因になっているのである。
教育の問題というのは、たった一つのことを良くすれば解決するものではない。マスコミの弊害、教育政策の弊害、家庭の問題、学校現場の問題さまざまである。ひとつひとつを少しずつ良くしていくだけで、教育そして日本は必ず良くなっていくのである。
(会場よりの質問)
人権をどのように高校生に教えたらよいか。
(八木秀次)
私は人権という概念自体に懐疑的である。なぜなら、当然、権利には義務が伴う。自由には責任、あるいは秩序、伝統が伴う。これらはヨーロッパでは普通の発想である。ところが日本では、権利・自由に伴っていた義務・責任・秩序・伝統が削ぎ落とされてしまったのである。
それゆえ、教育基本法で「公共の精神」という言葉が入ったが、これは当り前のことであり、ものごとはバランスをとっていかなければならない。
(会場より提言)
一番の問題は「総合学習」である。「総合学習」とリンクするのが「生活科」である。「生活科」ができた平成元年をきっかけに、子供たちがだらしなくなった。「総合学習」は日教組の運動方針の一つであり、これがあらゆるものを妨害している。教育再生を進めるならば、「総合学習」をなんとかしてもらいたい。
(会場より提言)
教員の社会は大変忙しい世界である。子供の命をあずかり、日々、目の前で起こる問題に対応しなければならない。マスコミが言うほど学校の教員は馬鹿でない。多忙を極めているということを是非知っておいて欲しい。
(八木秀次)
「総合学習」と教員の多忙は繋がっている。「総合学習」の背景にある「子ども中心主義」という発想が、現場の教員を非常に忙しくさせている。自分たちで教材などを作り、授業を新たに作っていかなければならないからだ。
ほとんどの先生は真面目に取り組んでいる。しかし、一部の先生たちの団体の考えが、日本の教育政策を大きく動かしてきた。平成に入ってそれは顕著になり、村山政権ができて決定打となった。現在の「ゆとり教育」はその最たるものである。
この点を改善すべく、我々は、教育再生会議に提言を続けている。今後も続けていきたい。
(会場より提言)
小学校で掃除の時間が週に2〜3回しかないところがある。雑巾がけをキチンと教えていないところもあるそうである。教員はそれらを放置していると聞いている。
私には子供がいるが、高校進学の際、判断材料になる情報がないため、受験校が決められず大変困った。内申点の現状も知らなかった。まったく何もわからない状況で子育てをし、相談するところもなく親たちは大変困惑している。
これらの現状を何とかして欲しい。
(小林義典氏)
そのような現状は承知していないが、そうした現状があるならば、掃除の仕方くらいはキチンと教えるべきであろう。
(八木秀次)
掃除というのは、その学校が良い学校か否かのポイントのようである。掃除指導をキチンとやっている学校は、学力の面でも良い傾向があるようである。
掃除の問題というと、一見すると小さな問題のようであるが、非常に重要なポイントではないか。
(坂田光子氏)
学力ももちろんだが、生命尊重教育は、掃除教育とつながりがある。トイレ清掃や街を美しくすることを通して、郷土への誇りや愛着につながる。
(日野浦司氏)
これまで守られてきた一般常識について、今の多くの子供たちはわかっていないのではないか。挨拶の仕方をはじめとした礼儀作法、掃除の仕方、道具の扱い方などは、例えばモノづくりを通して、若い人たちに教えていくことは沢山あると思う。ここ三条はモノづくりの盛んなところであり、それを通して若い人たちに色々なことを教えていければと思う。
(八木秀次)
今後、学校選択制が全国展開されると思う。すると、教育力の高い学校が選ばれ、その教育力の高い地域に人が集まるという結果をもたらす。今後、教育は十分地域の資源になりうる。つまり、高い教育力を誇る街は豊かになるのである。また学力のみならず、挨拶がきちんとできる学校、掃除教育の行き届いた学校、特色ある学校が注目されるのである。
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